ラムダ物語

思いついたことを置いておく思考のゴミ捨て場です。

RADWIMPSの歌詞と僕の信条

みなさんこんにちは。

ラムダです。

 

今回は、僕の好きなアーティストの事を語らせて下さい。

そう、RADWIMPSについてです。

最近は映画のテーマソングなどで非常に話題になっていますよね。

 

僕は6.7年前に友人から教えてもらいこのバンドの存在を知りました。

高校時代は特にハマり、

大学生になってから一度ライブにも行きました。

最高に楽しかったのを覚えています。

 

閑話休題

 

今回は、RADWIMPSの楽曲の歌詞について。

彼らの楽曲の「歌詞」が、今の僕の「信条」を作っているという話です。

僕に影響を与えてくれた楽曲を3つほど紹介しますね。

本当はもっとあるんだけど。

 

①「π」

 

この曲の歌詞の中には、僕が人と関わる上で守るべきモットーとなっている一節があります。

 

“どんだけ頑張ってみたところで好きにはなれない人がいて
けどその人もきっとどっかの誰かにとってかけがいのない人で”

 

たぶん、人間誰しも生きていれば

「あいつ気に食わないな」

とか

「絶対あの人とは仲良くできないかも」

って感じる事があるんじゃないかと思います。

僕もあります。

 

けれど、

「自分にとっては好まれない人」

もきっと、

「誰かにとっての大切な人」

なんじゃないかと思うと、

自然と人を憎んだり、好きではない人に執着する事がなくなりました。

それよりも、

自分にとって大切な人の方にリソースを割くことの方が大切だと考えるようになりました。

 

 

②「夢番地

 

“「現状(いま)に甘んずること勿れ」と言われても僕は笑えないよ
だって「今」のこの僕が誰かの夢見る未来”

 

“僕はきっと今いつかの夢の上に立っているんだね
僕はきっと今誰かの夢の上に立っている”

 

日々の生活の中で満足がいかない時、

生きている感覚がない時にこの歌詞を思い出しています。

 

「今生きている自分自身は、

他の誰かが夢見た姿なのかもしれない。」

 

「昔自分が夢見た場所に、僕は気づかないうちに立っているのかもしれない。」

 

そう思うと、あまり好きではない自分も、

心のどこかで愛せるようになりました。

そして、僕が「どこかの誰か」にとっての理想の姿であるのなら、

もっと胸を張って生きていく責任があるのかなと、

そんな風に考える事が多くなりました。

 

③「なんでもないや」

 

映画「君の名は。

のテーマソングの1つなので、知っている人も多いかも知れませんね。

 

この曲中の歌詞に、とても印象の強い一節がありました。

 

“君のいない 世界にも 何かの意味はきっとあって
でも君のいない 世界など 夏休みのない 八月のよう
君のいない 世界など 笑うことない サンタのよう
君のいない 世界など”

 

結構ありがちな邦楽って、

「君のいない世界に意味なんてない。」

とかいう旨の歌詞、結構ありますよね。

もちろんそれが悪いとは思いませんが、

個人的には少しありがち過ぎるというか。

 

でも、この曲はそうではない。

「君のいない世界にも何かしらの意味はある。」

としつつも、

「でも、やっぱり何か物足りないよな」

という書き方をしている。

そしてそれを

「夏休みのない8月」

といった、心にすっと入ってくるような比喩で表現している。

そこが非常に印象に残っています。

 

とても個人的な話ですが、

何かの「比喩」が個人的に好きだと、

その作品自体を気にいる事が多いです。

このことについても今後お話できればいいかなと思っています。

 

 

ーさいごにー

「音楽」に心を揺さぶられる、

といった経験はきっと多くの人にあるかもしれません。

ですがそこから、

「自分の人生に確実に影響を与えている」

と感じられる作品に出会ったことは、とても幸せだなと、僕自身感じています。

非常におこがましい話ですが、

いつか僕も「言葉」で、

他の人に何かしらの良い影響を与えられるだけの人間になりたいなと。

それが出来たならば、何にも勝る幸せだろうなと思っています。

 

それではこの辺で。

 

形から入ってみようかな。

昔から、何でも形から入ることが多かった。

 

「これ読んでたら他よりカッコいいかも。」

「これ趣味にしたらセンスあるかな。」

「こんな言葉知ってたら頭良さそうかな。」

 

今好きな本や、自分の趣味や、言葉の使い方の多くは、こんな風に考えてきた結果なのかも知れない。

 

その根底には、自分がどうしたいかより、

「他人からどう見られたいか。」

の方に重きを置いていたからかも知れない。

 

他人のことはわからないけども、

だいたい世間一般の人はそうなんじゃないかと勝手に思っている。

 

だからこそ、自分が「良い」と思った物や事柄を自身の周りに纏う人を羨ましく思ったし、カッコいいと思っていた。

自分自身の「好き」が、不純な、陳腐なものに感じていたんだろう。

 

そんな自分でも、

「なぜかわからないけど、好き」

という思いを最近よくするようになった。

からしたことはあったけど。

 

もちろん、歳をとって考え方も変わっただろうけど、それ以上に、周囲の目を気にしなくなっていった事が大きいのかもしれない。

そして、「自分が本当に好きなものは何か」

を判断するに十分な経験が、これまででできていたんだろうと。

そんな風に感じる。

 

今思えば、「何か」を好きになったり、興味を示す理由に、貴賎はないだろうと思う。

 

どんな動機で、誰からの影響であれ、興味を示した物事は、確実に自分に影響を与えるし、その末に「自分」を作り上げる手助けをしてくれる。

「誰かにどう見られたいか」

それも、

「自分がどうなりたいか」

を思い描いていることと同じで、

自分を作り上げる過程の一つなのだろう。

 

形から入った小説は、今では確実に自分の趣味と言えるし、それを読んでいることをステータスにしたいとは思わない。

「自分が好きだから好き」

いつのまにか、そう思えるようになっていた。

 

昔、形から入らない人をカッコいいと思ったのは、「自分が好きだから」というスタンスで判断していたことに対してなんじゃないかと感じたり。

 

だから、理由なんて考えずに、

カッコいいと思ったら試してみようと思う。

 

興味を持つ理由は、

「カッコいいから」

で十分かもしれませんね。

 

 

今日はこの辺で。

 

 

「トンネルを抜けるとトンネルであった」

「かごしままで何回トンネルとおるの?」

 

昔母にそう尋ねたことがある。

熊本から祖父母の家の鹿児島に帰る時だったと思う。

「20回くらいかな。」

母ではなく父がそう答えた。

 

子供の頃、高速道路が好きだった。

父のハイエースに乗って、暗い道を走る車の窓からずっと山並みを眺めていた。

 

トンネルを通る時のキーンと響く音も、

不気味にすら感じるオレンジ色の照明も、

どこまでも続く山並みの景色も

ワクワクして仕方なかった。

大袈裟ではなく、非現実の世界にいるような感覚が好きだった。

 

少し年をとり、高校生くらいから、助手席に座ることが増えた。

高速道路を運転する父の横顔を見ながら、この道を運転するのはどんな心持ちなんだろうと、

そんなことを思いながら、やはり窓の外を眺めていた。

当時の自分には、運転席に座る父の姿が、いつもより大人びて見えたことは鮮明に覚えている。

いつか自分がこの道を運転する時がきたら、一体どんな気持ちになるのだろうと、そんなことをいつも考えていた。

 

今日、初めて自分1人の運転で鹿児島に帰ってきた。

昔ずっと通ってきた道を、ワクワクしながら通り過ぎたトンネルを、

子供の頃を思い出しながら運転してきた。

 

23回トンネルを通って、祖父母に会いにきた。

 

 

特別感動したわけでも、

思い出深かったわけでもない。

 

けれど、昔ずっと想像していたシチュエーションを経験するというのは、言葉にし難い感覚になる。

 

父親も、こんな感覚で車を走らせていたのかなあって。

 

そして、次この道を運転する時、誰かを隣に乗せているのかなって。

もしそうならどんな気持ちなんだろうって。

また、子供の頃のように未来の自分に想いを馳せながら。

色んな体験を大切にして。

未来に思い出して幸せになれるようにしたいなって。

 

2時間のドライブのうちにそんなことを考えていました。

 

それでは今回はこの辺で。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「n杯呑めるならn+1杯も呑めるよね?」

こんばんは。

ラムダです。

 

今回は本当に備忘録としての使い方をしようと思います。

完全に僕の自己満です

 

 

ズバリ、帰納法演繹法をまとめようの回です。

僕自身、毎回毎回どっちだったか忘れてしまい、幾度となくwiki先生に助けて頂いたので、今回アウトプットする事で少しでも覚えられたらなと思います。

 

余談ですが僕のセンター試験の数2Bの得点は、

確か一桁でした。

一桁。

 

試験に使わないからってガチで鉛筆転がして

マークしてました。

6点とかそんなんでした。

ゴミ学生ですね。

 

なんで本命受かったのでしょう。

 

まあそんなバカの備忘録です。

 

バカは数をこなすに限ります。

 

ではいきましょう。

 

 

帰納法

個別的・特殊的な事例から一般的・普遍的な規則・法則を見出そうとする論理的推論の方法のこと。

Wikipediaより

 

wiki先生様々ですね。

 

これ即ち、様々な実験だとか事例などなどから、普遍的な法則を見つけようという方法ですね。

物理学だとか量子力学なんかの分野では、引くほどの回数実験を重ね、定理や法則なんかを見つけたりしますよね。

(文系なので知らないですけど)

 

「あの人は○○、この人も○○、あっちの人も○○。

なら、ここにいる人は○○」

みたいな感じ?

 

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最初からこれ貼っておけばいいんですよねすみません。

 

これが、俗に言う帰納法、ってやつですね。

 

ソクラテスも死んだ。プラトンも死んだ。

アリストテレスも死んだ。、、、、、

            ⬇︎

つまり、人間は全て死ぬ」

 

こんな感じですかね。

 

帰納法は、全ての事象を確認するか、それと同等な証明をしなくちゃなので、どうしても確率的な証明になっちゃいますよね。

 

 

演繹法

 

一般的・普遍的な前提から、より個別的・特殊的な結論を得る論理的推論の方法である。

Wikipediaより。

 

多分こっちの方が分かりやすいかもですね。

 

よく言う三段論法なんかもこっちです。

多分。

 

 

 

f:id:g1630310:20190816044051j:image

この素晴らしい画像で丸わかりですね。

 

 

大前提:人間は皆死ぬ

          ⬇︎

小前提:ソクラテスは人間である

          ⬇︎

仮説(結論?):ソクラテスは死ぬ

 

 

かの有名な三段論法です。

 

正直もう覚えた気がします。

はてなブログ様々です。

 

 

ここで、プラスで数学的帰納法なんかもまとめておきます。

 

 

 

自然数に関する命題 P(n) が全ての自然数 n に対して成り立っている事を証明するための、次のような証明手法である

 

1、P(1) が成り立つ事を示す。


2、任意の自然数 k に対して、

「P(k) ⇒ P(k + 1)」が成り立つ事を示す。


3、以上の議論から任意の自然数 n について P(n)が成り立つ事を結論づける。

 

 

???????

 

僕には少し難しい気がします。

(数2Bとかでやったかもしれませんが。)

 

(いややりました。赤点とったかも)

 

まあ少し頭をひねって考えると、

 

①で、命題Pがn=1で成り立つとして、

 

②で自然数kに対して

 

n=kでPが成り立つと、

P(k+1)が成り立つと仮定してー、

 

で!

①が成り立てばn=1のときに

Pが成り立つのですよ。

 

で、

②が成り立てば、

n=1が成り立つならn=2もイケちゃうわけで。

そうすると、n=2のときにn=3もイケて、、、

 

ってなわけで、全ての自然数で、このPは成り立ちますよと、

そう言うお話らしいですね。

 

僕自身書きながら???でした。

頭の出来が悪いので効率も悪いこと。

 

いるはずのない読者の貴方。

ご理解頂けたでしょうか⬅︎

 

ここで気になるのは、《帰納》って行ってるくせに、やってることは《演繹》ですよね。

 

たくさんの具体例から普遍的な法則を導くわけですから。

 

なので、

数学的帰納法は、実は演繹法

ということらしいのです!!

 

いや実に面倒な名前をつけたものです。

これから高校数学を学ぶみなさん。

頑張ってくださいね。

僕はもうこりごりです。

 

 

というわけで、今回は僕の公開オ、

もとい数学の勉強の備忘録となりました。

 

これから思いついたらこんな使い方をしていけたらなぁと思います。

 

それではこのへんで。

 

かしこ。

 

 

 

どうにかなるよ。知らんけど

 

ラムダです。

前置きは省きます。

省エネです。

 

「まあどうにかなるよ」

って言う台詞、生活してれば良く聞く話ではあると思うのですが、これって結構無責任というか。 

いえ、使うこと自体悪いことではないですし、僕も良く使います。

話をまとめるのに丁度いい言い回しですよね。

何も言葉狩りをしたいわけではありません。

 

ですがたまに思ってしまうのです。

「なんとかなるよ」

って言う人は、

「今まで頑張って努力してなんとかしてきた人」なわけで。

つまり、

「○○さんはなんとかしてきたけど、自分はなんとかなるとは限らないよな。」

なんて考えたりもして。

 

正直、会話の中で常に責任を持って話せ、だなんてどう考えても傲慢ですが、なんかそんなことを考えてしまいました。

本当に面倒な人間というか。

 

『普通に生きていても普通にはなれない』

とは良く言ったものです。

 

こんな時間に煙草をふかしていなければ

こんなどうでもいい事に思考を巡らせることもなかったのですが。

 

それではこのへんで。

 

かしこ。

 

物語とはいかに。

今回は適当です。

ラムダです。

寝られません。

思うのですが、毎回毎回2000字とか書こうとするから頻度が下がるんですよね。

始めはアウトプットの機会のために始めたブログなのに。

 

まあ書きたいことがたくさんあるのでいつも想定の5倍くらいになってしまうんだけど。

 

それと毎回前置きが長いですね。

自重します。

 

私思うのですが、小説家の方々はどうしてあんなに他人の人生、物語を書くことができるのでしょう。

小説自体色んなジャンルがあるので一概には言えませんが、(ノンフィクションとかもあるし)自身が体験していない場面で、物語の中の主人公がどういった思いになり、どういった行動をするのか、そういうことを考えて書くわけじゃなですか。

多分。

そういう時、キャラクターの性格とかバックボーンとかその他諸々を考えてストーリーを進めると思うんですけど、それってすごいなぁって思うのです。

そりゃ自分自身がどう思うか、どう行動するかはギリ書けるかもしれませんが、ストーリーの中の登場人物がどうするかなんてわかんないでしょ!って思ったり。

 

好きな作家さんのあとがきや、独白本を見たりすると、「○○○ならきっとこうするだろう」みたいな事を話されたらしていて。

 

自分には到底及びのつかない様々な経験をして、自身の世界を広げてきたんだろうなと、

毎回関心するばかりです。

もし、もし機会があれば、僕も自身の物語を紡いでみたいものです。

人様に見せられるようなものでなくとも。

 

とても楽しいだろうなと。

そう思います。

 

というわけで今回はここまで。

 

またお会いしましょう。

人事部長殺し

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みなさんお久しぶりです。

ラムダです。

 

就活が終わるまでブログは自重しようと思ってましたが、思いのほか時間がかかってしまいほとんど放置してしまいました。

就活中に僕の中に沢山のゴミがたまってしまったので、このゴミ箱に全部捨てていきたいと思います。

これから就活を控えている方は、このゴミをチラ見していただけたらと思います。

 

愚痴成分が強めなので、愚痴アレルギーの方は終盤だけでもよろしくどうぞ。

 

 

 

 

結果から申しますと、ダメ元で受けた第1志望の企業様に内定を頂き、(7/16)そのまま入社させていただく運びとなりました。

 

以前もお話しした通り、振り返ると僕の就活は失敗のカテゴリに入ります。

まあ主観が入るのでなんとも言えないのですが。

 

僕の就活の始まりは昨年の12月から、もっと遡れば2年前の夏休みからになります。

大学2年の夏休み、インターンに参加させて頂き、非常に貴重な経験をさせて頂きました。

それまで毛嫌いしていた営業の仕事を経験し、営業という仕事の魅力、楽しさに触れ、自身の価値観を変える経験となりました。

また、3年生の12月には、既に説明会に参加し、就活へのモチベを高めていました。

正直な話、自分自身でも、就活はスムーズに終わるだろうと考えていました。

というのも、準備期間は周囲の友人よりも早く進めていて、その上売り手市場と騒がれていたこともあり、少し自信がありました。

今振り返るととんでもない過信でしたが。

就活解禁の3月1日には、皆と同じように大規模な合同説明会(僕は福岡のヤフオクドームで)に参加しました。

魅力的な企業がたくさん紹介され、モチベは最高潮でした。

あの時は。

 

僕の地元は熊本でしたが、福岡に魅力的な企業がたくさんあったため、積極的に福岡まで足を運び、説明会に参加しました。

5月くらいまで本当に頑張ってたと思います。

ですが、なかなか上手くいかなかったのです。

2次、3次選考までは進めても、やはりそこで落ちてしまう。

さらに「何故落ちたのか」のフィードバックが無いので、何故ダメだったのか客観的な振り返りが出来ずかなり参りました。

朝7時から車を走らせ選考に参加したのに結果が出ず最悪の気分でした。

一度連日の選考の際に福岡のスーパーで車中泊してまで参加した事もあります。

 

 

6月に入り、ついに選考中の企業、いわゆる手持ちがなくなってしまい、打つ手がなくなりました。

その時点で、未だ内定ゼロ。

周りの人間はほとんど全員が内定を数個獲得している状況でした。

病んでました。

毎日酒を飲みながら、ゲームしてる時だけ、自分の不甲斐なさと焦りと、不安な気持ちを忘れることができました。

その時はもう些細な一言が辛かったです。

「何個内定もらった?」

「もうほとんど就活は終わってるらしいね」

「なんでまだ終わってないの?」

決して悪気はないですし、僕の自意識過剰なだけですが、そんな言葉全てがプレッシャーでした。

選考に参加させていただいた企業の中には、

性格診断の数値に疑問を持たれたり、「将来のビジョンが全くないですね(笑)」なんて言われたり。

福岡まで自腹を切って参加したのに。

自分自身を全て否定されたような気がして、落ちる所まで落ちました。

 

手持ちを全て失い、一度全てをリセットしました。

本当に自分がやりたいことは何か。

自分は実際どういう人間なのか。

基礎的な就活の準備からやり直しました。

 

そして、地元熊本で再び就活をやり直しました。

時は流れついに7月。

「夏までスーツなんて着たくないよなw」

なんて話してた一年前の自分は、なりたくない自分になってしまいました。

みんなが余裕を持って学生生活を送るなか、自分は何枚も履歴書を書き、リクルートスーツを着て、訳の分からないテストを受ける日々。

情けなさと同時に親にも申し訳ない気持ちでした。

 

そして、熊本で受けた選考の3つ目。

役員面接を受けた3日後に、内定のお電話をいただきました。

ダメ元で受けたSEの企業(本命)でした。

「採用ですか???」と3回くらい聞き直しました。

担当の方には笑われました。

それまで成功体験がなかったので、本当に自分に自信がありませんでした。

本当に、信じられなかったです。

 

簡潔に書ききれませんでしたが、僕の就活の概要はこんな感じです。

 

 

楽しいとは言えませんでしたが、終わりよければ全て良しとします。

 

 

これから就活を控える方にアドバイスする立場ではないですが、

強いて言うならば、こんな風に苦しみたくないなら、

在学中にしっかり準備して、自信を持てるような経験をしておくべきです。

 

インターンに行くのもいいし、海外留学でも、自分探しの旅でも、アルバイトでも

勉強でも趣味でも、なんでもいいんです。

それらの経験から、自分が何を得て、何を感じて、どんな成長ができたのか、

それを堂々と人に伝えられたらそれは素晴らしい経験です。

そこにスケールの大小は関係ありません。

と、僕は思います。

 

ああ、でもインターンは行ったほうがいいですよ。

大抵はタダで参加できますし、大手企業だとインターン専用枠なんてものもあって

かなり有利になりますからね。

 

正直、僕から伝えたい失敗談なんて腐るほどあるのですが、

書くのも面倒だし、大学や就活エージェントの方にでも相談したほうが

100%有益ですので。

 

ただ、幾つか感じたことといえば、

「諦めなければ目標は達成するとは限らないけど、その結果なら後悔はない。」

のかなって思います。

僕の経験なんて苦労のうちにも入りませんが、

後悔しない経験と結果を掴めたこと自体はよかったのかなとも思っています。

 

それと、

「あまり他人と比べてもしょうがない」

です。

これからは本格的に自分の人生を選択するのに、他人の進み具合や内定先と比べても

意味はないと思います。

最終的に自分が満足できる結果になるといいですね。

 

あと、ストロングゼロは神」

ということ。

これがなければいまの僕はなかったと言えるでしょう。

死んでいたかもしれませんね。救世主です。

 

まあ僕ほど生きることが下手でもなければ就活に困るなんて

あまりないかもしれませんが、ひとまずこの辺りで

僕の就活シーズンは完結です。

 

これからはやや専門職にはなりますので、専門学校出身の同期に

負けないよう努力しようかなと考えています。

 

皆さんの就活がよりよいものとなるように

少しだけ祈っています。

 

それでは。